僕たちは、もっと違っていていい。
はじめまして。小野貴正です。
ここでは僕からのメッセージということで、この会社で何をしようとしているのか、少しだけ、紹介したいと思います。
昔話になりますので、よかったらお付き合いください。
なぜ、僕がコピーライティングをサービスの軸に据えているのか。
それは、僕が難聴であることに、理由の一つがあると考えています。
生まれつき難聴だったわけではなく、保育園の年中か年長のときにおたふく風邪を患い、ムンプス難聴となりました。
難聴を自覚したのはずっと後になってからのことですが、小学校4年生か5年生の頃に受けた健康診断の聴力検査で、明らかに他の生徒とは異なる結果を出していました。
特に高音が、聴き取れなかったようです。自覚はないのですが、あの「ピピピピピ」と鳴る聴力検査の音が聞こえてくると、「ピー」という耳鳴りが同時に発生していたので、どの音が聴力検査の音なのか、わからなかったんですよね。
僕にしてみたら友だちとの会話もできるし、学校の授業で先生が話していることも聴き取れる。だから、ちょっと聞こえないのは大丈夫だと思っていたのです。
しかし、両親にしてみたら気になるようで、なぜなら、僕に呼びかけても返事がないと。だから、心配だったと聞かされていました。
特に母が心配していたのは、記憶の奥に残っています。父も心配してくれていたのですが、当時はパチンコが好きで、後年町の議会議員に立候補した際、供託金をパチンコで稼いだきたと言うような父でもあります。
ですから僕を育ててくれたのは、美容院を経営している母のおかげだと、子どもながらに感じていました。
もちろん、父には父の役割があり、それを常に感じることができていたので、とても感謝しています。
そんなこともありまして、母には心配をかけたくないと、ずっと思っていたんですよね。
幼少期からどもりがち…今でいう吃音症ではありましたが、深呼吸してから話し始めるようにするなど、授業で発言することも生徒会の立会演説でも、父の選挙の応援演説でも人前で話すことは好きでした。
運動会では徒競走やリレーが好きだったのですが、人前で話すことも含め、美容院にやってくるお客さんを通じ、活躍していることを母に伝え、安心させたかった、という気持ちもあるのかもしれません。
単に目立ちたいだけ、というのも、正直あると思いますが。
難聴はだんだんと意識できるようになってきて、今では補聴器をしても聴き取りが難しくなってきました。
実家に行くと、相変わらず母は僕の耳を心配し、代われるものなら代わってあげたい、と言います。
僕にしてみたらこの耳は母のせいではないですし、実はあまり気にしていないのですが、母が気にするなら、気にならないようにしてあげたいなぁ、とずっと思っていました。
社会に出て立派に活躍すればいいのでしょうが、飛び込み営業をしても名前を聞き取ることに難儀します。
お金に近いところで仕事をしたほうがいいとは思っていましたから、営業は適していると考えましたが、いかんせん会話が成立しない。
そんなとき、コピーライティングに出合いました。もともと広告という形では、リクルートの進学リクルートブック営業、またホットペッパー営業で携わっておりましたが、コピーライティングを書いていた、という認識はありませんでした。
結婚し、バンコクに住む長男が3歳になろうとしている時、お父さんとは呼んでくれるものの知らないおじさんを見る目にゾッとし、独立起業を考えていた頃でもあります。
1年に7日間の時間を共有するだけでは、お父さんと認識されないんだな、と体験したんですね。
コピーライティングのいいところは、営業と違って耳が聞こえなくても、セールスレターや広告でものを売ることができる点にあります。
しかも、コピーを書く場所や時間は、問われません。
難聴の件もあり、僕に向いているな、と感じました。
そしてこれなら、母も安心できるような暮らしをつくっていけるとも。
ここにもまた、コピーライティングで生きていく理由があります。
コピーライティングの素晴らしいところは、商品やサービスの違いを認め、違いを追求することが、売れるかどうかを決める、というところです。
世の中を眺めてみると、一見個性を大切にしようと言われていて、個性を大切にしたサービスがつくりだされているように見えるけれど、実は皆と同じであることを推奨されているように見えます。
パターンオーダーとか、そうですよね。パターンありきで、微調整してその人を合わせていく。
コピーライティングスキルを身に着け、時間と場所の自由を手に入れよう、とかもですね。
皆が皆、時間と場所の自由など実は求めていないのに、さもそれがいいものであるかのように、啓蒙していく。
そうじゃないよね、と僕は思います。そんなんじゃ、世の中は豊かにならないよね、と。
なぜならそこに、「その人自身」がないからです。
生まれも育ちも違う人たちが、自分自身の内側から聴こえてくる声、僕はこれを「魂の声」と呼んでいるんですけれど、魂の声に従って生きることが、自分自身を、自分自身の周囲を、世の中をうれしくしていくと考えています。
生まれも育ちも違うんだから、皆違ってそれがいい。
違いを感じ、違いを追求し、違いを生み出すこと。
そんな人たちを、彼らにふさわしい人に伝えていきたくて、ビート・ザ・コントロール株式会社ではコピーライティングやセールスプロモーションのサービスを提供しています。
僕たちは、もっと違っていていい。
違い豊かな、彩りのある世の中をつくっていきましょう。
小野貴正
ビート・ザ・コントロール株式会社 代表取締役
略歴
1974年12月30日生まれ。
美容師を営む両親の長男として生まれる。
保育園年長時におたふくかぜを患い、ムンプス難聴に。
子音の聴き取りができず、打ち合わせ時は補聴器を着用。
祖父は高知県で八幡宮の宮司をやり、町の議会議員。
そのせいか、大学は法政大学法学部政治学科。
20歳の時、父が町の議会議員選挙に出馬。
3期務め、3期ともに選挙応援として街頭演説や街宣車活動、ポスター作成や広報誌作成、ポスティングなどを行う。
人の心を動かすことに興味をもち、株式会社リクルートにA職入社。
専門学校や大学への広告営業をやるほか、退職後は業務委託契約でホットペッパー京都事業部にて広告営業を行う。
その後お世話になった会社ではブライダル事業を立ち上げてプロフィールスライド作成を開始。
タイにいる妻と子どもとの時間を増やすため、また自分の人生を自分でコントロールしようと考えたため、セールスライティングスキルを獲得し、独立起業して現在に至る。
日本では相模原市在住。
タイではバンコク在住。